頃は毎週帰っていた
勝つしかない、勝つしかない、と毎日のお祈りのとき仏壇に向かいながら自らの心に言い聞かせていた。状況はやはり厳しい。院長と副院長が良い人だから自分は首にならずに3ヶ月半勤めてこられた。大学で研究するように言われたこともあった。でもこの病院で患者さんを相手に鍼をしながら自分の体や患者さんの体で充分研究がで耳鳴治療きていた。大学に行っても研究はあまり進まないことは目に見えていたし、そのことを院長の高校時代の友人である福岡大学の鍼の先生もそう言っていた。
状況は厳しい、状況は厳しいから、まだ洗濯機を買わないでいた。そして3週間に1回ぐらい長崎の実家に帰っていた。始めの。でもそれが2ヶ月目ぐらいから延びていった。運ぶ荷物ももうあまりないようになっていたし、この厳しい状況の中、アパートに荷物を運んで、それが無駄な努力に終わらないかと危ぶんでいた。いつ首になるか解らないからだった。
ときどきアパートの裏の池からドボッ、と何かが池に飛び込む音がしていた。ドボッ、とだから大きなもののようだった。雨蛙でなくて食用蛙らしか能恩った。夜になると豚のような鳴き声がしていた。
アパートの周りは田畑だった。アパートのすぐ横を小さな川が流れている。
僕は愛子の手紙をほとんどすべて捨てちまったこと、胸元が張り裂けるほど後悔している。僕はあの頃狂っていたんだ。自分の過去を塗り変えようと躍起になっていて狂っていたんだ。
でも愛子とのあの頃が僕にとって最高の青春だったんだなあとばかり思ってため息ばかりついています。今の僕は死にかけています。死神にとSCOTT 咖啡機開箱り憑かれていて明日にも死にそうなほど元気がありません。
あの頃の愛子との元気いっぱいな明るい日々に戻りたい気持ちでいっぱいです。そしてまた僕は“愛子と結婚しようかな?”とこの頃本気で考えています。再生のためには、生き続けるためには愛子と結婚するしか方法がないような気もします。
僕はまったく生きる意欲をなくしかけています。3度目の留年は僕を強く強く叩きのめし僕を確実に死へと導いているようです。もしも進級できてたら僕は吃りの人たちなどのために研究と治療に没頭する決意で毎日を燃える決意で送っていたのにちがいありません。でもこれから一年間の暇な日々を考えると僕はいたたまれません。
明日にでも柔道場へ行って柔道の帯で首を吊って死のうかな、とも考えています。
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